ハンガリーの鬼才タル・ベーラ監督の最新作「ニーチェの馬」を観ました
ニーチェが打たれる馬の首にすがって泣きくずれ、それ以後”母さん、僕は愚かだ”という言葉を残して狂気の世界へ入っていった
という逸話から映像が始まり
それ以後、旧約聖書の「創世記」で語られる世界創世の最初の7日間(7日目は休息なので6日間)を逆行する、というプロットでした
つまり、終末・収束に向かう6日間を描いた映画
映画の間中、以下の3つの本が頭の中をグルグル、ぐるぐる・・・(^O^;)
- 「シネマトグラフの覚書」:巨匠ロベール・ブレッソンの映画についてのメモをまとめた本。ブレッソンは自らの作品を映画と呼ばず、シネマトグラフと呼び、音楽はほとんど使用せず、感情表現を抑え、出演者をモデルと呼び、独自の戒律に従ったキビシイ作風。主知主義的。そんな「シネマトグラフ」を想起させる作風です
- 「文体練習」:レイモン・クノー著。同じ風景、出来事を、99通りのもの文体で言い換えるという「文章の可能性」を追求した本。同様に、本映画でも、日々繰り返される人間の生活(寝る、起きる、働く、食べる)が淡々と繰り返されるのですが、それを、異なる視点で映像化していくのです。どのカットも秀逸。映像版「文体練習」みたいでした
- 「旧約聖書」:1日目、2日目、とテロップが表示され、街が奪われ、人が去り、水が奪われ、6日目に光が奪われた瞬間に、「創世記を逆行」と確信していく・・・恐ろしい
なんて本のことを同時に考えてしまって、まったく感情移入はせず、淡々と、淡々と観ました(もう一度みたほうがいいかも(^O^;)?!)
でも、ちょっと「ニーチェ」とこの映像のテーマを組み合わせて考えてみたいと思いました
私にとって、ニーチェといえば「永劫回帰」と「超人」という言葉・思想を、中学生の私の中に残した人
*永劫回帰についてWikipediaに描かれた文章は以下のようなかんじ
永劫回帰するのは、終末を迎えることなく時を越えて同一である物にして、且つ万物である。万物斉同。すなわち、永劫回帰は終末における救済というオプティミズムとの対比でしばしばペシミズムと結びつけて語られるが、その一方で、救済されるようにと今の行いを正す、という制約から解放された明るさもある。世界が何度めぐり来ても、いまここにある瞬間がかくあることを望む、という強い生の肯定の思想でもある。その意味で、永劫回帰は生をおろそかにしない超人にのみ引き受けることが可能な、存在と意志との自由の境地である。永劫回帰はたんなる宿命ではなく、自由意志によって招来される世界の根源的なありようなのである。
私の言葉で「永劫回帰」に含まれる言葉の意味は、「自分が何かを考え、行動しても、何も新しいことなんてない。人生は繰り返し。永遠に回帰する。では何故生きてるのかしら?生きてる意味なんてないじゃない?それでも人生を肯定するなんて、スーパーマン的な意志が必要!」と理解しております
ちなみに、中学生の私は、超人にはなれない、LOOSER(負け犬)と自覚し、なんだか悔しいので徹底的にペシミズムになって生きてやる!と「不幸ゲーム」=つらい気持ちになるゲーム、などしたりして・・・・(^O^;) オカシイ子供でした。おほほ(^^♪
と、話が逸れましたね・・・
で、ニーチェ自身が「超人」になれず、狂気に陥った、という絶望物語を再現するような構成のこの映画・・・
人間はやっぱり超人にはなれず、ただ、ただ、終末に向かうしかないのでしょうか?
監督は、この映画を最後にもう撮らないそうです
映画の後のQ&Aで、監督がでていらっしゃいましたが、彼は壇上にあがることを良しとせず、客席の一番前に立って挨拶されました
そして
このクソみたいな世界を描いた、つまらない映画を観てくれてありがとう
というようなことをおっしゃいました
それほど、「クソみたいな世界」を嫌っていて、もう撮るものがないのでしょうか?
・・・少なくとも、私は、映画に描かれたような終末は来ない、と思っています
だって、私自身ニーチェに共感しつつも負け犬の刻印を押されて、それでも、むしろ年をおうごとに、精神的には健やかに生きているので♡
あ、超人じゃなくて、負け犬だから、なのか(*^^)v
「私は愚かだ」
だから、笑顔で生きていける、と思うけどな
監督はなぜ今この映画を創ったのだろう?
彼はそのクソみたいな世界を心から変えたいと思って問題意識を投げかけたのでしょうか?
皆さんのお考えをお伺いしたいところです
それにしても「THIS IS THE MOVIE」という迫力満点でした
来年2月公開なので、ご覧になったらぜひぜひコメントください(って絶対ないよね(~_~;))
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